1つめ
「安らぎ」を得られる教会を目指して
~仙台宮城野教会の基盤にしたいもの~
(聖書 マタイによる福音書11章28~30節)
仙台宮城野教会の基盤にしたいもの。それは「安らぎ」です。
イエス・キリストは、私たちに「休ませてあげよう」と語りかけ、「安らぎが得られる」ことを約束してくださいました。私たちの負っている苦労を、イエスが一緒に担ってくださるというのです。
ここで言う「安らぎ」とは、日頃の疲労を回復し、次の労働に備えるための休息を意味するギリシア語原語が用いられています。ですから、教会はイエスの言葉と行いを通して、私たちの心身の疲れや苦しみを一緒に担い、癒してくださるイエスがともにおられることで生じる「安らぎ」を、何よりも大切にしたいのです。
ですから、教会がまず目指すのは「働き」よりも「安らぎ」です。せっかく休息を得るために教会に来ても、プログラムや奉仕に忙殺され、ギスギスした人間関係で疲れ切ってしまうことがあるならば、身も心も休まることはありません。それならば、家で休んでいたほうがまだ良いのです。
そのために、仙台宮城野教会は、主の日の礼拝も、教会に集う人々との交流も、その他の教会における営みのすべても、私たちがまず目指すのは「イエスとともにある安らぎ」です。この安らぎを体現するために、具体的に展開していきます。
こうして、主イエスとともにある「安らぎ」は、活力ある宣教に欠かせない基盤となります。
2つめ
「愛の泉」があふれる教会を目指して
~安らぎある教会に不可欠なもの~
(聖書 マタイによる福音書22章37~40節)
安らぎある教会に無くてはならないもの。それは「キリストの愛」です。イエス・キリストは、自分の愛を「アガペー(無償の愛)」をもって示されました。
仙台宮城野教会は、かつて二つの「愛泉教会」として、宣教の歩みを踏んでいました。愛泉の文字は無くなりましたが、愛泉という語に示された精神は、私たちが決して忘れてならない、教会が抱くべき姿勢そのものです。
愛にはいろいろなかたちがあります。そのなかで教会を建てる愛は「アガペー」です。具体的には、イエスの生涯における言動に示された愛です。イエスはアガペーをもって、神を愛し、隣人を愛しました。これを守るべき掟として、私たちに示されました。
ですから、私たちは、アガペーとは何かを理解し、それを自分自身に対する掟とすることで、教会が「キリストが示された『愛の泉』があふれる場」とさせられていくことを目指します。愛の泉があふれるところには、必ず「安らぎ」が生まれます。宣教の基盤であるとともに、根拠となるのです。まさに、愛泉教会の実質化を、私たちは目指します。
3つめ
「キリストにならう」教会を目指して
~神の愛を具体化する私たちの営み~
(聖書 マタイによる福音書28章18~20節)
イエスは、私たちに与えられた「アガペー(無償の愛)」の掟を具体化するために、私たちに命令を与えられました。その命令は、ただ「キリスト(・イエス)にならう」ことを目指すものでした。
「ならう」とは「模倣する」ことであり、具体的には、聖霊なる神の助けによって、聖書に記された言葉の本質をつかみ、自分の生き方とすることです。イエスは、聖霊に満たされた父なる神の完璧な模倣者でした。
イエスが神のもとに帰られる前に、弟子たちに命じられたのが、いわゆる「宣教大命令」という、上記の聖書の言葉でした。それは「イエスの弟子をつくり、育成する業」であり、具体的には、 1)伝道し洗礼者を生み出す業、2)信仰を自分のものとするための教育とケア(牧会)の業です。つまり、「キリストにならう」ことは、アガペーを土台として、「伝道」「教育」「牧会」がいかに具体的に展開されて、宣教の業を支える三本柱となっていくかの営みです。
仙台宮城野教会では「安らぎ」「アガペーの泉」を踏まえて、決して背伸びすることなく、息切れすることなく、しかし、聖霊の助けによって祈りつつ、前向きに「キリストにならう」ことを目指します。
4つめ
「判断と決断」を尊ぶ教会を目指して
~カルト化しない教会の実現に向けて~
(聖書 コリントの信徒への手紙二9章7~8節)
宣教を進めていくなかで、私たちが肝に銘じたいのは「カルト化しない教会」の実現です。
カルトとは「ゆがんだ支配構造」のことであり、それは、人間関係のあるところには、必ず起きるものです。つまり、私たちがどんなに意識しても、カルト化の萌芽が無くなることはありません。だから、私たち一人ひとりが、カルト化の可能性を持っているのだという自覚を持って、自分の言動に責任を持ちつつ、教会を支えていくことが重要です。
教会がカルト化しないために私たちに求められているのは、各人が「安らぎ」「アガペーの泉」の模範となられたキリストに「ならう」ための根拠が「聖書の言葉」「聖霊の助け」であるのを、まず認めることです。そのうえで、神の御言葉に丹念に聴き、祈りつつ導き出された、あくまで自発的かつ積極的な「判断と決断」を、互いに尊び合うことです。
これらのことを、キリストのからだである教会をつくりあげるための「文化」とすることを目指します。
ここに「キリストにならう」教会にあって、それぞれに神から与えられた「賜物」が活かされ合う関係がつくり上げられます。賜物が活かされる関係性のなかで、決して他から強制されことのない、自発的かつ積極的な「奉仕」こそ、魅力ある宣教に寄与し、発展につながります。